六 中庭はあくまで中庭でした

最初の候補地だった天神橋筋3丁目「おかげ館」の中庭の幅は、おかげ館の横幅と通路を合わせた広さがあります(前回の写真をご参照ください)。奥行きは、その倍以上あったと思います。「おかげ館」を所有する3丁目商店会に許可をいただいて、この中庭の写真をとり、ここで地下水の取水と、そのための掘削が可能かどうか、楠見先生経由で業者に問い合わせていただくことにしました。

この中庭の上には建物がなく、空が見えます。天神橋筋商店街の店舗や住居の場合、間口はそれほど広くなくても奥行きがかなり深く、伝統的にこうした中庭がある作りも珍しくないとのことでした。また、今ではこの中庭を生かした飲食店も出てきており、皆さんも伝統的な中庭を楽しむこともできるようになってきています。間口が狭く、奥行きが深いのは「昔は間口の広さで税が決まったからじゃないかな」という話を聞いたことがありますし、奈良などでは確かにそうだったという説明を受けたことがあります。ただ、天神橋筋商店街については、「昔がいつだったのか」も、「本当にそうだったのか」も確かめていないのですが…(これはいずれの課題としておきましょう(笑))。

当時の商店連合会の会長さんは、繁昌亭という落語の定席の立ち上げを中心的に担った方々のお一人で、全国的にシャッター化の波に襲われている商店街をどうしたら盛り上げられるかをいつも考えておられる方でした。「おかげ館で地下水が復活したらなにをしましょうか?」という話をし、商店街で湧き出る水が商店街を潤すという夢を語ったものでした。

さて、業者に問い合わせてから間もなく、楠見先生から返事がきました。ドキドキしながらお話を聞いたところ、

楠見先生:「どうも狭すぎでだめだとのことです」

語り手:「…」

語り手:「どうにかなりませんか?それなりに広いですよ」

楠見先生:「本掘するのにやぐらを組むのですが、それを組むには狭すぎるとのことです」

語り手:「(未練がましく粘る)いや、でも、その、中庭、上は開いてますよ。やぐらなんとか…」

というやりとりを経て、再度確認していただいたりしたのですが、
「狭すぎる」
という結論は変わりませんでした。

そして、後日、天満宮で本掘がはじまったとき…「いや、これはおかげ館ではむりだわあ(笑)」となったのでした。

天満宮での本掘の状況

五 中庭に井戸をほる?

こうして、2010年5月に、天満天神の水の物語は始まり、楠見先生は早速、天満天神地域周辺の過去のボーリング調査のデータに当たってくれました。
一方、語り手は、商店街に楠見先生の話(1インチパイプなら井戸を新たに掘ることができる)をお伝えし、天満天神の水を復活できる可能性があることをお話ししました。当時の天神橋筋商店連合会の会長にも直接お話ししたところ、夢のある話として、大変に乗り気になってくださいました。
「ああ、なるほど、こうして大阪天満宮の五知の井が復活したのね」と早合点してはいけません。当初のお話は、大阪天満宮の五知の井の復活というわけではなかったのです。では、どこかって?
この話を知っている方は少ないのですが、実は、天神橋筋3丁目商店街の中に掘ろうという話だったんです(ここは、驚くところ…(笑))。
そんな場所があるかといえば、あるんです。
ところで、今回の写真は、天神橋筋3丁目商店街で、奈良県葛城市の物産展が開かれたときの写真です(東日本大震災が起こり、途中から被災地支援の募金活動に変更になりました)。場所は、「天三 おかげ館」。天神橋筋3丁目商店街振興組合が所有する、イベント、会合などに使える多目的スペースです。
実はこの多目的スペースの裏側(写真の右側通路から奥に入ります)に中庭があるんです。そして、ここが最初の候補地でした。

天三 おかげ館

四 専門家の降臨 

前回は、「楠見晴重先生から、天満の地下水を復活させる可能性が示唆された」お話をしました。
楠見先生は地下水のエキスパートで、京都の地下に豊富な水が溜まっている様子(京都水盆というそうです)を3次元的にCGであらわすことに成功しています。さらには、この京都水盆の水量は約211 億トンであり、なんと琵琶湖に匹敵する(!)量であることも明らかにしました。こうした楠見先生の研究成果をうけて、関西大学と伏見酒造組合は、地下水の利用と観光保全についての研究で連携協定を結んでいます。
楠見先生と天満の地下水の話をする数か月前、語り手は楠見先生の講演会でこの話を聞いていました。しかし、天満の地下水の復活に、楠見先生のお知恵を拝借しようという発想はまったくなかったのです。まったくいつでもどこでも迂闊です。
そして、町街塾(こちらは、「『天満天神の水の物語の始まり』の始まり」をご参照ください)で楠見先生とご一緒し、大学に戻る学長車に乗せていただかなければ、この発想はずっとないままだったのです。
こうした偶然から「天満天神の水の物語」は始まりました。いつも「偶然」から始まるその物語が紡がれていくには「前をみては、後えを見ては、物欲しと、あこがるる」人々の集まりが要るようです。
そうして、天満天神の水の復活は、多くの人々の思いとなっていきます。

楠見先生が中心となり、関西大学が月桂冠株式会社と共同企画したミネラルウォーター『自然の秀麗』

三 凱旋と伝言 

町街塾から大学に戻る車の中で、リサーチアトリエの大家さんとの話(昔はいい地下水がでたけれど、井戸が枯れてしまい、もう規制で掘ることはできない)を、道中の四方山話の一つとして楠見先生に話しました。すると、語り手が聞き逃しそうになるくらいにアッサリと

楠見先生:「いや、井戸は掘れますよ」
語り手:「えーっと、それは…その…(心の声:はっ?なんですかぁ?)」
語り手:「(意識をとりもどして)地下水の取りすぎで、地盤沈下も起こったため、掘ることが禁止されていると聞いたのですが…」
楠見先生:「1インチ(約2.5センチ)までの太さのパイプなら大丈夫なんです。井戸の掘削規制のおかげで地盤沈下も止まり、地下水もかなり豊富になっていると思います。」
楠見先生:「工業用で使うのでなければ1インチのパイプでも十分役に立ちますし、地下水を使いすぎて悪影響を与えるということもまったく心配しないでいいでしょう」
語り手:「ほ、本当ですか?!(心の声:まじかよぉ!!!)」
語り手:「その話、商店街に伝えてもよろしいでしょうか?」
楠見先生:「ええ、結構ですよ。私も過去のボーリングのデータなどあたってみましょう」
語り手:「ありがとうございます。商店街の方々が企画を考える種になり、とても喜ぶと思います(心の声:まさか、井戸復活の可能性があるなんて…涙…)」

上記のやりとりは、あくまで記憶の中のもので、楠見先生からは専門家としてのずっと正確なお話がありました。

そうだったんです…
その日、語り手は迂闊にも忘れておりました。楠見先生が地下水の権威(!)であることを…
この日から数か月前、楠見先生にわざわざお願いして、吹田市民向けの講座で「京都の地下に琵琶湖と同じほどの地下水が眠っている」という話をしていただいたばかりだというのに…
学長職で多忙な先生にわざわざご講演いただいたというのに…

車に同乗させていただき緊張して、各種の記憶が飛んでいた語り手です。
楠見先生のアッサリと話された内容は、語り手にとっては「ジェネラル・ルージュの凱旋」を目の当たりにしたような衝撃で、かつ、商店街へは「ジェネラル・ルージュの伝言」を仰せつかった気分でありました。

いまから11年前の5月22日、こうして「天満天神の水の物語」が始まりました。

(下の写真は、SOLARISの入っているイノベーション創生センターとその定礎)

二 「天満天神の水の物語の始まり」の始まり 

この物語は、2010年の初旬、リサーチアトリエという研究施設を天神橋筋3丁目商店街の中に作る準備をしていたところから始まります。


リサーチアトリエは、この年の7月にオープンするのですが、その準備のために、場所を貸してくださる大家さんと各種の相談をしていましたときの話です。
(大家さんは商店街の理事もなさっている「まちの生き字引」のような方で、たくさんの勉強をさせていただきました。)
相談が終わった帰り際、、何のはずみだったのか、「昔、この並びにもお豆腐屋さんがあった」という話になりました。

大家さん:「そんな時代もあって、井戸の水をつかっていたんですよ。きれいないい水があって、お豆腐もそれでつくっていたんです」
語り手:「もう井戸はないんですか?」
大家さん:「井戸はもう枯れてなくなってしまったと思います。それに、地下水の利用で大阪の地盤沈下も起こり、いまはもう新しい井戸を掘ることはできないらしいんです」
語り手:「井戸が商店街に復活したら、あたらしい人のつながりができそうに思うのですが…、もう掘ることはできないんですねえ」 記憶なので、あくまでこんな感じの会話です。
大家さんはきれいな大阪ことばを話されるので、大家さんのお話ももっとずっと趣きがありました。


井戸の復活はできないという話を残念に思ってから数か月後、2010年5月22日の土曜日、「町街塾(まちがいじゅく)」という催しが北浜の老舗料亭「花外楼」でありました。
町街塾は、商店連合会、関西大学などが連携して行ってきた文化事業で、そのときの町街塾は大阪の芸者さんの踊りなどを拝見し、お話を聞かせていただくという内容でした。関西大学からは、当時の学長の楠見晴重先生、副学長の黒田勇先生、そして、私(語り手)が参加させていただきました。
いろいろと楽しく学び、大学まで戻る学長の車に同乗させてもらったのですが、このとき…
ここから井戸の復活の物語が始まります。
続きは、また。

一 天満天神の水の物語 

その昔、大阪天満宮の正門を入ってすぐ左側に、「五知の井(ごちのい)」と呼ばれる井戸がありました。この井戸から汲まれる水は、名水として名高いものでした。ただ、高度経済成長期に大阪全域で地下水が大量利用され、とても残念なことに「五知の井」も枯れてしまいました。
 「天満天神の水の物語」は、大阪天満宮の境内の井戸が復活し、そこから湧き出る地下水がさまざまに利用されている現在までの記録です。
 このサイトのトップ写真は、現在の水のお社から地下水が湧き出ている様子です。また、上の写真は、揚水試験(どれだけ豊富な地下水があるかをテストする試験)で、天満宮の岸本禰宜が水の試飲をした際の様子です。この写真が撮られた2011年10月26日は、大阪天満宮の地下に豊富な水があり、大阪天満宮の井戸の復活が確定的になった日です。
 これから、この日までの物語と、この日からの物語を、記憶と記録をたどって(訥々とですが…)掲載していきます。